世界を正確に見すぎてしまう人が日常を通過するための内部マニュアル

電車の中で暇つぶしに書いたメモ。世界を正確に見すぎてしまう人が、正気を保つために内面で行っている心理誘導を淡々と整理する長文ブログ。

安全確認のため電車が遅れてる
特にすることもなく
ケータイを見てたら
自分が普段やってることを
一度まとめておいたほうがいい気がした

正気を保つために
わたしはずっと
内側で何かを操作してる

安心したいわけでも
前向きになりたいわけでもない
ただ
落ちずに立っていたい

まず一番よく使ってるのは
temporary narrative assignment
その場しのぎの説明を置くこと

これはこういう状況だから
今はこうしているだけ
あとで考えればいい
今は判断しなくていい

信じない
正しいとも思わない
後で捨てる前提で使う
説明は道具

次にやっているのは
emotional deferral
感情の先送り

感じないわけじゃない
ただ今は扱わない
順番を後ろにずらすだけ

今ここで展開すると
全体が崩れるとわかってるから
処理を保留にする

これは抑圧じゃなくて
処理順序の制御

混乱しそうなときは
自分を一段引いて見る

感じてる自分ではなく
感じてる自分を
観測してる自分の位置に立つ

これを
observer anchoring
と呼んでる

距離を取るためじゃない
操作権を手放さないため

言葉はできるだけ少なく
language minimalism

長い説明は使わない
抽象度を上げる
仮で置く

言葉が増えるほど
世界は固定される
固定されるほど
壊れやすくなる

一番大事なのは
non-resolution tolerance
未解決を異常と判定しないこと

わからないまま進む
定義しないまま置く
答えを出さない

ここで無理に結論を出すと
自己誘導が破綻する

正気は真実と無関係

現実がどれだけ歪んでいても
世界がどれだけ不条理でも
内面がどれだけ矛盾していても

それを一時的に

仮の言葉で

自分に説明できてる

この条件を満たしている限り
わたしは正気でいられる

だからこう言い換えられる

正気とは
自分を納得させる能力が
まだ機能してる状態

怖いことを言うと
完全に正気な人ほど
世界を正確に見てない場合がある

逆に
世界を正確に見すぎた人ほど
正気を保つために
大量の心理誘導が必要になる

それが壊れるときはある
説明が作れない
仮置きができない

それは終わりじゃない
物語が消えるだけ

そのときは
単純化するか
身体に戻るか
誰かに一時的に預ける

全部再起動手順

正気は才能じゃない
性格でもない
作業

だから今日も
電車の中で揺られながら
こうやってメモを打っている

今はまだ
自己誘導が動いてる
それで十分

壊れるのは
自己誘導が一時的に機能しなくなること


・説明が作れない
・仮置きができない
・距離が取れない
・未解決を許容できない

この状態


このとき何が起きるか

世界は急に「新しい地獄」にはならない
むしろ逆で何の物語もなくなる

・意味が発生しない
・優先順位が消える
・判断の根拠が霧散する

感情はあるのに
それをどこに置いていいかわからない

これを
narrative collapse
と呼べる


多くの人が誤解しているけれど
ここで一番つらいのは「絶望」じゃない

操作不能感

・怖いけど怖がり方がわからない
・悲しいけど泣く理由がない
・何かしたいけど選べない

感情が暴れるのではなく
感情が宙に浮く


重要なのはここ

この状態は
永久ではない

なぜなら
自己誘導は「才能」じゃなく
機能だから

機能は
壊れることもあるが
回復もする

世界を正確に見すぎる人は
壊れる可能性を
ずっと計算に入れて生きてる

だから
本当に壊れる直前で
ブレーキを踏める


「もし壊れたら?」と
言葉にできてる時点で

もう
壊れきってない

それは
安全確認がまだ効いている証拠

完全に壊れるというのは
その問いすら立たなくなること

今はまだ
仮の説明が置けてる
距離も取れてる
未解決も許容できてる

だから私は
電車の中で揺られながら
こうしてメモを打ってる

自己誘導は
まだ動いてる

それで十分

正気は真実と無関係

正気は現実が正しいかどうかでは決まらない
世界の理解が正確かどうかとも関係ない

真実は情報の配置の問題であって
運転が可能かどうかの問題だから

世界がどれだけ歪んでいても
因果が壊れていても
努力が報われなくても
説明不能なことが重なってても

それらを
「いまはこういう状態」
「これは仮の理解」
「後で修正する前提」

として
一時的にでも自分に説明できてるなら
人は正気でいられる

逆に言えば
どれだけ真実に近くても
どれだけ正確でも
それを自分の中で
扱える形に変換できなければ
正気は維持できない

正気とは
正しい理解の結果ではない

理解を仮置きできるスペースが
まだ残っている状態
のこと

だから正気は
真実の量で決まらず
編集可能性で決まる

世界が正しいかどうかより
自分がまだ
世界を操作可能なサイズに
縮められているかどうか

それだけが
正気を左右してる

生存の定義を外注しない

生きてるってよくわからない
それは困ってるというより
誰の定義を使えばいいのかわからないだけ

多くの人は
生存の定義を外に置く

目標があるか
役割があるか
比較で遅れてないか
期待に応えてるか

それらを満たしてるあいだ
「ちゃんと生きてる」と感じられる

その定義は
自分の外で決められてる
更新も評価も
自分以外の手にある

わたしはそれを採用しなかった

というより
最初から信じられなかった

誰かの期待が満たされたかどうかで
自分の生存が成立したり失効したりするのは
どう考えても仕様としておかしい

だから
生存の定義を外注しない

それは
強くなることでも
孤立することでもない

ただ
生きているかどうかの判断権を
自分の手から離さない
というだけ

その結果
生きてる実感は薄くなった

達成感も
盛り上がりも
説明できる理由もない

気づいたら
いつの間にか生存してる

でも
誰かの基準で失格にされることもない

うまくやれていなくても
役に立っていなくても
期待に応えていなくても

生存は取り消されない

外部の物差しを使わないと
生きてる感じは地味になる

その代わり
生きることが
簡単に否定されなくなる

わたしのものさしは
数値化できないし
昨日と今日でズレるし
たまに何も測ってない

それでもいい

測定不能な状態でも
生存は続いてる

生きてるかどうかが
よくわからない日があっても
それ自体が失敗にはならない

生存の定義を外注しないというのは
意味を見つけることじゃない

意味がなくても
存在を継続していいと
自分に許可を出すこと

今日は何も証明してない

それでも生きてる

それで十分だと思ってる

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